相続放棄の錯誤無効
相続放棄の撤回は民法上認められていません(民法919条1項)。相続放棄の取消しは認められていますが(民法919条2項)、取消事由は限定されていますし、取消しの期間制限もあります(民法919条3項)。そこで、相続放棄の効力を争う方法として、錯誤による無効が考えられます。
最高裁昭和40年5月27日判決・判例タイムズ179号121頁は、相続放棄についても民法95条の適用があることを認めており、個別の案件において錯誤無効が認められるか否かの判断となります。
裁判例
東京高裁昭和63年4月25日判決・判例時報1278号78頁
Xが相続の放棄をした場合、Aの遺産は真実はBがすべて相続することになるにもかかわらず、Xは、Aの弟や妹にその遺産を承継させる意図のもとに、この意思を家庭裁判所における審問の中で明確にしたうえ、相続放棄の申述をしているのであるから、Xがした相続放棄の意思表示は、民法95条にいう法律行為の要素に錯誤がある場合に該当するものといわざるを得ないとしたものの、当該事案において錯誤無効を主張して相続財産の取り戻しを図ることは権利の濫用に当たるとされました。
高松高裁平成2年3月29日判決・判例時報1359号73頁
Aと妻Wは離婚し、子YについてはAが親権者となって養育を行い、子XについてはWが親権者となって養育を行っていたところ、Aが交通事故により死亡し、W、Yが加害者に対する損害賠償請求権を相続したものの、WはYの後見人から「Aが離婚後自暴自棄となり借金を重ね3000万円の債務だけが残り、相続放棄をしないと、子らがその債務を支払わなければならないので、相続放棄をせよ。」と言われ、これを信用してXの親権者として相続放棄しました。
このような事案において、WがXの親権者として行った相続放棄の申述は要素の錯誤により無効であるとされました。
福岡高裁平成10年8月26日決定・判例時報1698号83頁
Xらは、被相続人には一般債権者に多額の借金があり、株券も行方不明で、これがなければ株主としての権利行使はできず、過大な借金だけを相続する旨の話しを聞かされて信用し、これを回避することを動機として相続放棄したところ、実際には一般債権者からの借金は出てこないし、株主としての権利行使に関しても誤った情報を誤認したものと認定し、相続放棄の申述には要素の錯誤があり無効としました。
東京高裁平成27年2月9日判決・判例タイムズ1426号37頁
Xが放棄申述をした約1ヶ月半後の時点では平成23年頃から進行し始めた認知症による精神上の障害が重度で、計算や物事の理解力が低下し、知能指数的には8歳程度の状態にあったものであるから、放棄申述をした時点でも基本的に同様の精神状態であったと認めることが相当であること、Xが成年後見手続の鑑定医に対して相続放棄をしたことはないと述べ、放棄申述をしたことを自覚していないこと、Xにはわずかな年金収入しかないのに,「自分の生活が安定していること」を相続放棄の理由としており、自身の経済状態を的確に把握、理解していたとは認められないこと、Xが夫の遺産について相続放棄をする合理的な理由が見いだし難いことなどから、XはXについて遺産分割調停からの排除を申し立てた孫に勧められるなどして、相続放棄の意味を理解できないまま夫の遺産について相続放棄をしたもので、放棄申述は、Xの真意に基づくものとは認められず、相続放棄の意思が欠けるものとして無効であるとしました。